さよならBUMP〔最終話〕 / 新しい宝物

最初の話で書いたように、私は、今回のライブで、BUMPは卒業しようと本気で思っていました。

BUMPに思うところがあるから…というか何も思えなくなったから、というよりも、「BGMもろとも、過去の物語にしてしまおう」、そのための区切りとして。


根っからのBUMPオタクというよりも、BUMPがたくさんの思い出を伴っていたこと、これまでの道のりの至る所で、示し合わせたように唄を運んでくれたことも含めて大切に感じていた私は、大げさだけど、BUMPという「青春のBGM」があっては、堂々巡りを繰り返す……そんな風に思っていました。

そして、BUMPに何も感じなくなったのは、心の奥底が「このままじゃダメだ」と警告している証なのかも、とも。

もう、そこにいていい時間は終わったのだから、と。



ただ、前の日記でも書いた通り、それが私の「個人的事情」ほどでないにしても、何も感じなくなった理由の中に、「BUMP自身に、今までみたいなパワーがない」ということも、やっぱりあるような気がします。

そしてその理由は、ライブから帰って、昔のアルバムを聴いていて、なんとなく見えてきた気がしました。

曲調云々以上に、藤くんの詞のレベルが、本人の実態より幼い気がして、無理をして若い感じの詞を作っているように聞こえるのです。ファンを大切にしてるのは、よく解るのですが……。



「昔の方が良かった」なんてことは(アホっぽいから)あまり言いたくはないですが、確かに、数年前のBUMPの唄の言葉が持つ生命力は、今とはかなりの差があるように思われます。

今の唄も、“綺麗”なのは綺麗なんですけど、決して悪いものではないんですけど、

同じ美しいものであっても、以前の唄と、今のとでは、

「芸術家が精魂込めて創り上げた一大彫刻」と、

「高いお金出せば買えるガラス細工」くらいの違いがある気がします。

そりゃあ、私だってものづくりをするから、いつでも良いものが創れるわけじゃないということは解るけど、

それでも、同じ「孤独」を唄うにしても、「Title of mine」と「孤独の合唱」とでは、

他人に手を伸ばす怖さと繋いだ温かさを唄うにしても「ベル」や「真っ赤な空を見ただろうか」と「ファイター」では、

言葉の質量も、体積も、深みも、違いすぎる。



……そもそも、彼は今もまだ本当に、「孤独」や「他人の怖さ」の中にどっぷり浸かっているの……?



私はBUMP情報を追っかけてきたタイプのファンではありませんから、詳しいことはよく解りません。
っていうか、「心臓に悪い」とかいって、いっそ避けてたくらいです。
京セラドームのとなりのAEONのフードコート休憩に行く道すがら、本屋の前を通ったのですが、ずらっと並ぶBUMP関連雑誌を見て、


私「こういう雑誌、買ったことないわー」

ハルマキ「へー。僕、エルレ(※ELLEGARDEN)が解散した時だけは買いましたよ」


という具合に、本を買おうとしたことも、ネットで情報を追いかけたこともありません。

余談だけど、エルレのファニバニは本家に負けないくらい良いと思った。あの勢い。

ストレンジカメレオンはやっぱり本家が好き。

ハイブリッドレインボウは、どっちもそれぞれのよさって感じかな。



……と、話はそれましたが、私には、今の藤くんの紡ぐ言葉は、どうも、彼の魂の奥底から涌き上がった言葉ではないように聞こえてしまいます。

いくら藤くんの詞が「物語性」を強く持つとはいっても、アーティスト(音楽)はフィクション作家ではないのですから、やっぱり内から出てくるものを歌詞にしてこそ、光を放てるんじゃないかと思ってしまう。

その辺り、もっと器用なアーティストもいるのでしょうが、私には、藤くんはあまりそういうタイプには見えないのです。

これはリスナーの勝手な戯れ言ですけど、早い話、もっと「等身大の」おっさんくさい唄を作ってほしいなぁと思います。

「生きにくい自分」や、「思春期の中心」からの唄だけじゃなく、

もっと「人生を全て俯瞰した」ような詞を聞いてみたい。

37歳、もう、そういう歳です。

十代には十代の、二十代には二十代の、三十代には三十代の、感性と、仕事があります。

あの、多彩な糸を、幾重にも複雑に絡めて、たぐい稀な光を放つ布を紡ぎだすように、「鮮やか」というだけでは言い足りないほどの言葉を放つことの出来る詩人が、そんな力を身につけたなら、どんなに素晴らしいことになるのだろう、と。

彼には、そういう新しい仕事があるんじゃないか、と……。


2014年の東京ドームライブで藤くんが、今まで好きなことだけやってきたけれど、自分たちの名前、立ち場を自覚しなくちゃいけないと思うようになった、みたいなことを言っていましたが、

それがもし、「人の役に立つ」ということを意味し、周囲のニーズに応えんとして、ウケの良いタイプの歌を作ったり、タイアップなどを積極的に受け入れるようになっていたりするのだとしたら……社会的なしがらみや義理は、そう簡単に断ち切れないものでないことは解っているつもりだけど、それでも、

「あなたが好きなことをやるのが、一番、誰かの役に立てることなんだ」

と、私は言いたくなる。

社会に合わせようと無理な就職をして、広島で泣き濡れていたとき、

「貰った『自分』を押し込めて生きるんじゃない、在りたい自分に誠実に生きろ」

と、私の背中を押し得てくれたのは、他ならぬ、BUMPでしたから。



私の「妄想」の中で、藤くんは、宮沢賢治の生まれ変わりです。

別に、「銀河鉄道」とか、「サザンクロス」って歌があるからじゃなくて、なんとなく前から言っている「妄想」なのですが。

最期まで他人のために命を燃やして生きた賢治は、今生では、己が望みをごまかさないという在り方に変えて、前と変わらず、貰った「自分」に、貰った命に誠実に生きに来たんだろう……


なんて。


前世では「あをい めだまの こいぬ」、


今生では「ガラスの 目をした 猫」なんです。



教え子特権ということで、チケット代はちょっと負けてあげて、代わりにハルマキくんには、
「晩ごはんをおごってもらうこと+ニコルのぬいぐるみを買ってもらうこと」
をお願いしました。


ご飯屋さんで、食事がくるのを待っている間、ニコルが入ってる箱の蓋を空けて、
「なでなでしてあげて」
と言うと彼はニヤッと笑って、ぐしゃぐしゃのめちゃくちゃに、ニコルの頭をなでやがりました。



ぬいぐるみを家に迎えるのは何年ぶりか解らないけど、服まで与えられたニコルは日が経つごとに、どんどん宝物としての存在感を増しています。     

(おわり)

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