さよならBUMP〔2〕 / 地平線の下

BUMPの唄に対して、「何も感じなくなった」のではなく、本当は「何も感じないようにしようとしていた」のかもしれない。

そんな気もします。


BUMPソングを聴いていると、私は、「わたしの中」に浸ってしまいます。

それはとても、心地よいのです。

BUMPの唄は、心をえぐるようでいて、それでいて発破をかけるように見えて、その実、

——「勇気を出そうとする弱虫の自分」に「浸ろう」とする、自己中心的で閉じられた世界——

そこに人を留めてもしまう。

相手の柔らかな心のコアに触れ、響き合い、本音をかき鳴らす、その力の強さゆえに。


「強くなりたい」

「勇気を出そう」

「こんな自分じゃダメだ」

「どうして私はこんななの」

「もっと優しくなりたい」

「もっとたくさんのことを解りたい」

「怖くても誰かと手をつなぎたい」……


そんなことを考え続ける、頭の中だけの世界。

悩むことで、行動するのと同じくらいのエネルギーを払って、それで許されたような、認められたような気になれる世界。

そこには本当は、自分以外の人がいなくて、

けれど、「誰かと手をつなぐ勇気を出そうと泣いている自分」に浸っていられる世界……


そこにいていい時間なんて、とっくの昔に終わっていたのです。

内なる世界で心を豊かにしたのなら、そのあと私たちは、“本当の傷”を追う世界へ出かけていかなければならない。

そして自分の言葉で唄を歌わなければならない。

たぶん、それが、 人生を紡いでいくということだから。 


「自分と取っ組み合いをする」ということにおいて、藤くんは素晴らしい力を貸してくれました。

その旋律も声も、私が心を解放しさえすれば、実は今でも幹を震わせてゆけるのかもしれません。


でも、力を借り続けたからこそ、これ以上、そこに浸り続けていたくない。

藤くんの唄は、自らの内側に人を還してくれる。

けれど、そのまま鍵もかけてしまう。


たかが、一バンドの話です。

けれど、人間の魂による仕事がなしたことを象徴するような出来事でもあります。



もう、ここには浸っていたくない。 浸っていてはいけない。


ダメな自分を責めながらも愛でるような、病的で幼い、内にこもった心では結局「自分」しか愛せないまま。

私は、正しく、自分と世界を愛していきたい。 

外に出て、人を朗らかに愛していけるような自分に、自分を育てたい。



地平線の下に留まって、夜明けを夢見る時間なんて、もう、とっくの昔に終わっていた。



世間に沿って生きられるようにと、あまりに無理を強いて、自分をいたぶり続け過ぎた私は、

自ら負わせた傷を撫でながら、その痛みに浸りつつ癒す「心地よさ」ゆえに、

その時間の中で長患いをしてしまっていたのかもしれません。

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