頭で考えてるときには分からなかったことが、とつぜん、
「ニャっ!」と……じゃなくて、「ハッ!」と分かる瞬間が誰しもあると思うのですが、
私は、
- お風呂で頭洗ってるとき
- 寝ぼけてるとき
が、自分の『2大フラッシュタイム』だと思ってます。
(以前は、「『ふっ』がやってきた」なんて言ってたんですけど、
それじゃあちょっと、文章にしづらいので(笑))
最近でいえば、職場で、
「DWハウスの部屋はね……友達が住んでたので行ったことあるんですけど、
玄関ドアが軽くて落ち着かなくて。建物自体は可愛いんですけどね〜」
という話をした翌朝、目が覚めて、ぼーっとしてるときに、
「……違う……玄関ドアが軽くて落ち着かないのは、DWハウスやない……DT建託の家や……」
とフラッシュが起き、虚偽の情報を正すことが出来ました。
DWハウスの神が濡れ衣を晴らそうと降りてきた瞬間でした。
深刻な悩みを解消出来た話も。
新卒採用で旅行会社に勤めてたときのこと。
何度か書いてますが、当時は職種が合わない上に環境もブラックすぎて、
辞めたくて逃げたくて、でも助けてくれる周囲や頑張ってる同期のことを考えたり、
一年足らずで逃げ出すことを自分に許していいか分からなかったり、
堂々巡りを繰り返し過ぎて、そのうち私は、最終的に半分病気みたいになっていました。
当時の日記には、
「一刻も早く答えを出したいのに、一日のうちに考える時間が足りない。
答えを求めるために、眠る時間さえ惜しい」
と書かれています。
(その頃はまだ、「苦しければ逃げてもいい」という考えは
今程浸透してなかったんだなぁ……と、時代の移り変わりを実感しますね。)
そんなある夜、あれは本当に一瞬のこと。
シャンプーしながら、ふっ、と声が降ってきたのを今もよく覚えてます。
——辞めるも、続けるも、自分の意思によって決めなくてはならない。
病気になってしまって、仕方なしに辞めるのも、
『決める勇気』がないまま、自分の意思を働かせずに残るのも、
どちらも許されない——
そう頭に響いて、あれだけ考えても出なかった答えを
翌日、所長に持っていくことが出来て、心が息を吹き返したこと。
『あれ』が降ってくるのがあと一ヶ月遅かったら、
私は、『最後の階段』から転げ落ちていたと思います。
若かりし頃は、私も他に漏れず、頭フル回転で、ああでもない、こうでもないと
様々なことを思考で解決しようとしていた気がします。
でも、あるとき、それをちょっと手放すことにしました。
考え過ぎてると、勘が鈍る、と、何となく思ったんですね。
合理性や実益が重視されている現代。
(それが今、問題として議論される流れになってますね。いい傾向だと思う)
そこでは、データやロジックこそが正義で、『勘』なんて、当てにならないものとして軽んじられてしまうけれど、
でもやっぱり、『動物の勘』は、大昔から人間の命をつないできた実績を持つ、
DNAに組み込まれたれっきとした能力なんじゃないかな。
これをもう少し……自分の意思で使えるようになればいいのだけど……
未熟者の私には、気まぐれに頬を撫でて去っていく風のようなものというのが現状です。
実は今日も降りてきていた、フラッシュ。
今日は一日眠くて(こら)、ぼーーーーっとした状態が限界に来た時、やってきた答えが
「これが最終試練」
その一言。
大丈夫、今のなやみは、ちゃんと光の方へ向かってくんだな、って。
*
<おまけ:フラッシュという言葉について>
『可愛いエミリー』(モンゴメリ著)では、エミリーが、
「自分とふしぎな世界の間にかかっている、薄いカーテンがゆらめいて、
その世界をちらっと見たときの言いようもない喜び」のことを
『ひらめき』と呼んでいますが、原文では『Flash!』となっていた(と思う)ので
それを借用しております。
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