桜の木々が手を振っている


(※ このエッセイは、私が2009年に初めて発行したエッセイ集「Cotorilla vol.1」に掲載したものです。今日はおばあちゃんの命日なので、再掲することにしました。)





三月最後の土曜日に、母方のおばあちゃんが亡くなった。

八十一歳だった。


新聞の死亡広告欄を見て、若い人の死を痛ましく思うことはあっても、八十をすぎた数字では、その家族たちの気持ちにまで、あまり思いが及ばなかったものだった。

ああ、長生きだったんだね。

そうしてその文字の後ろにある悲しみを素通りした。


けれど、おばあちゃんが歳をとるに連れ、愛情が薄れるなんてこと、あるはずもない。

その四年前に父方のおじいちゃんが亡くなり、その次は、“順番”でいけば、おばあちゃんだろうと、意識はせずとも、むしろ意識することを抑えるようにして、それでもどこか感じていた、それは避けられない恐さだった。



亡くなる二日前、弟の就職祝いということで、親戚みんなで食事をした。

髪をほんの少し切り揃えたばかりの私に、おばあちゃんは、

「菜央は髪型を変えたのね?」

と聞いてくれた。

「うん、ちょっと切っただけだよ。」 

それが覚えている最後の会話になった。

子どもたちにも量が多過ぎた豪勢な食事を、おばあちゃんはゆっくりめに、けれども元気に食べていた。  



病気らしい病気はしていなかった。

心臓が弱くなっていたが、私が生まれる前に亡くなったおじいちゃんのお墓参りをする為に、私たちでさえ息切れする、山あいにある墓地の急な坂を、いつもしっかりと歩いていた。

母が少し前に、あまりにきついその坂を、ふざけてうしろむきに歩いて、

「こっちの方が楽かなぁ」

と言い、私は苦笑しながら、

「小学三年生並み。それ、ちびまる子ちゃんでやってたヤツじゃん」

と言った。

同じように後ろ向きで、その坂をおばあちゃんが歩いていた、という話を伯母から聞いたのは、

亡くなったあとだった。 



優しいけれど、「ただ優しい穏やかなだけのおばあちゃん」では決してなくて、

世の中に対する切り口はピリッとしていたし、

テレビに入れる容赦のないツッコミは、母と私がしっかり受け継いでいる。

孫達をけしかけてかくれんぼをして、まだ小さかった従兄弟は半泣きになっておばあちゃん達を探したり……なんてこともあった。



私が大学に入ってからは、サークルの定期演奏会に、毎年来てくれた。

学祭のみこしパレードも、わざわざ、見にきてくれていて、

顎に左手を当てて、右手は左手の肘に添えていたその仕草を見たサークルの仲間は、

「菜央のおばあちゃんっぽい!」

と、嬉しいような、よく判らないような感想を言った。




小さい頃、おばあちゃんがうちにくるのが、私も弟も大好きだった。

うちでご飯を食べていけばいい、うちに泊まっていけばいい……

そう言って、かばんを隠したこともある。

すぐ遠慮をするおばあちゃんは、それでもこっそり帰ろうとしたもので、

帰られた! と知って、泣きながら夕暮れの道を追いかけたこともある。小学生の頃の話だ。



バイト先の塾と、おばあちゃんちは近かったから、夏期講習中、時間が空きさえすれば、

五分ほど車を走らせて、お昼ご飯を食べにいった。

ちょっとしたものを作ってくれることもあった。

弟は、よく母に文句を言ったものだ、

「どうしてお母さんは、おばあちゃんみたいな炒飯が作れないんだよ」

と。 

ちょっとした用事があって車を出すときは、必ずおばあちゃんちに寄った。 

弟が帰省している時も、マックでお昼を買って、必ず一緒に遊びに行った。 

母の仕事が休みの日も、ほとんど毎度のように会いに行った。

インターフォンを押すと、「今日は一人で来たのね?」などと言いながら、ドアを開けてくれた。

「もうすぐ晩ご飯だから、すぐ帰るから」と言っても、必ずお茶とお菓子を出してくれた。

一口ゼリーはいつもなぜかカチカチに凍らせてあって、

それこそ一口で食べようとすれば、冷たすぎて口の中が痛くなった。 



用事があってもなくても、足を運んだ。


私や母だけじゃない、弟も、従兄弟も叔母も。



居場所だったんだ、誰にとっても 





心臓発作で倒れたおばあちゃんに最初に気が付いたのは、一緒に住んでいた従兄弟だった。

彼から電話をもらい、病院ではなく、「家」に駆けつけるように言われたときに、母も父も私も混乱していたのか、誰も気付かなかった、それの意味するところに。

救急隊員の「手遅れです」の言葉に、そして、動かせないおばあちゃんの姿を見て泣き崩れる母を前に、

私はただ、身体に力を入れて、その場に立っていた。



亡くなる四日前が誕生日だった。

春休みで帰省していた弟と、母と伯母は、おばあちゃんを連れて、吉野公園に花見に行った。

十七歳の従兄弟は、その夜、叔母とケーキを持っていって、周りに冷やかされながらも、ハッピーバースデーを歌ってあげたらしい。



私は、今年、何もしていなかった。


そのことが、これほどまでに悔いられることになろうとは。





—―失くしてから気付く、なんてありがちな台詞で


たくさんの人が口にしてきていて


きっと、ありがちになるほど、たくさんの人が、それを痛いまでに感じてきたのだろう


そうならないように、気をつけて生きてきたはずなのに


相も変わらず、私は自分のことでばかり悩んでいて


自分、自分、と、自分をもてあまし


誰に話を聞いてもらえばいいんだ、なんて勝手に卑屈になっていたり


自分との葛藤だとか、将来とか、そんな幼いことに振り回されているうちに


自分に向けられている、この上ない愛情を見過ごしてしまっていた



愛されていたことに気がつくのは、やっぱり失くしたあとで


気をつけて生きてきたはずなのに、やっぱり手遅れで


ありがちな台詞を吐いてきた「たくさんの人」の仲間に


やっぱり私も入ってしまった




誕生日にくれる贈り物や、お年玉には必ず手紙がついていた。

広島から初任給で送った贈り物への、おばあちゃんからのお礼の電話、

声があまりに暖かくて、初めての就職と一人暮らしで気持ちが疲れ果てていた私は、

電話口で嗚咽を漏らさないよう、気付かれないように涙だけを流した。 



八十一歳のおばあさんだ。

でも、納棺師の、「おばあちゃん」という呼び方に、なんとなく違和感を覚えた。

おばあちゃんは、おばあちゃんだけど、それは私たち孫にとって、という意味で、

よその人から呼びかけられる時は、そうだなぁ、「奥さん」とか、そんな感じじゃないかな。

一緒に過ごした二十七年間、おばあちゃんが老いた、と私は感じたことがなかった。

おばあちゃんは変わらなかった。

お葬式に来てくれた叔母の友人は、棺の中のおばあちゃんを見て、

「もったいない、こんなに綺麗なのに」

と言った。

八十一歳のおばあちゃんが言われる台詞だろうか、と、悲しみの中からも少し可笑しかった。

可笑しかったけれど、それで正解だ、とも思った。



いい葬儀だった。

親戚、友達、近所の人まで、参列者の誰もが泣いていた。

お葬式、と言えば、遺族の知人とか友人とか、直接の関係はない参列者がいくらかを占めるのが当たり前と思っていたから、皆が皆、涙を流すそんなお葬式は稀な気がして、悲しみと同じくらい、その場の空気に満ちていた愛情に、嬉しくさえなった。

人に愛され、慕われ、その生き様がどんなものだったのか、葬儀の場で、初めて知らされた。

自分は、すごい人の孫だったんだなぁと、誇らしくも思えた。

会場の入り口に「故人の作品です」と飾られていた、亡くなる前日まで習いに行っていた水墨画のエビは、どこか間が抜けた、愛嬌のある顔をしていて、母や私が描く絵と、なんとなく繋がって見えた。

祭壇の花は、遺影の背景の桜に合わせて、葬儀屋さんが独自に作ってくれたものだった。

遺影も、何年か前に、やっぱり吉野公園に花見に行ったときの写真だったらしい。



棺に、みんなで手紙を入れた。思い出をたくさん綴ったあと、

「私がそっちへ行く時は、お土産持っていくから、何がいいか、その頃になったら分かるように教えておいてください。」

と書いた。

こないだ行った湯布院のお土産の「ぬれおかき」は、渡しそびれてしまったから。

最後にふと思いついて、

「親を安心させられるように、頑張ります。」

という一文を付け加えた。

手紙に書いた言葉の中では一番、私の行く先を常に気にかけてくれていたおばあちゃんとの会話らしい言葉のように自分で思えて、笑いながら泣いた。

手紙ともう一つ、仏壇に長い間置かれていた、色褪せた一羽の折り鶴を一緒に入れた。

小学二年生だった私が、初めて折ることが出来た鶴で、記念に、と、おばあちゃんがずっと、おじいちゃんのお仏壇に置いてくれていたものだった。

そうやって、孫達に関わりのあるものは全部とってあったから、おばあちゃんの飾り棚は、おみやげが所狭しと並んでいて、ドイツのニワトリだの、中国の豚だの、沖縄のシーサーだので、すっかり異国情緒がごちゃごちゃと混在した、不思議な場所になっていた。




花でいっぱいの棺の中で眠るおばあちゃんは、本当に綺麗で安らかな顔をしていた。 


祭壇の八重桜は、その場所に溢れていた、優しさすべてを表しているようだった。





葬儀が済み、しばらく経って日常に帰った頃、仕事帰りに自転車をこぎながら私は、河畔の公園に立ち並ぶ桜に目を奪われた。


夕暮れが近づき、少し淡くなった空の青の下で、春の風に花びらをそよがせる優しい桜の木々は、

なんだか天に向かって、一斉に手を振っているようだった。



桜の季節に生まれたおばあちゃんは、桜に見送られながら旅立っていったんだと思えた。




母方のおじいちゃんが亡くなったのは、私が生まれるちょうど二ヶ月前のことだった。

「自分で言うのもなんだけど、お母さんは、私をいいときに生んだねぇ。こんなに悲しいときに、もし、もうすぐ赤ちゃんが生まれてくるとしたら、救われるじゃない。」

生意気にそんなことを母に言った。



自分、自分をもてあまし、

不安定で不安だらけで、

自分がイヤになることは今もしょっちゅうで、 

生きていくのをもう、やめてしまいたい、と弱音を吐く日はなかなか尽きなくて、


でも、私が生まれたとき、大切な人を亡くしたばかりだったおばあちゃんは、どんなに喜んでくれたのだろう。




母は三姉妹の次女で、三人の中では、一番おばあちゃんに似ている。

そして、母に似てきたと言われる私も、そうして自分の中におばあちゃんを見ることが出来ているのならば、



そのことが、力になる。



私が生まれたことを喜んでくれて、

いつでもどんなときでも愛情を注いでくれた、

大好きなおばあちゃんに繋がっている私を、


おみやげ持って、いつか会いに行く日まで、



ちゃんと、ちゃんと生きていこうと思える、



そんな力に、なっている。

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