(銀魂で「城島、リーダー辞めるってよ」ってパロディあったのを思い出す)
作者が平成生まれ、つまり学生時代が遠い昔でないということに一番の納得。
これを見てみ、と言ってくれたのも、90年代生まれの子。
「『部活必死な童貞』と『ヤリまくりの帰宅部』のどっちがいい?」
なんてセリフが冒頭で出てくるけど、その両サイドを描き分けるために、もっと広く言えば、高校生の生々しい様子を描くために、「桐島が部活を辞めた」ってきっかけがあるだけ。
だから作中に桐島は基本、出てこない。
この映画を観ると、たぶん、大学生くらいまでの子たちは、割と近い記憶にまだ胸が痛くなったりするだろうし、だいぶ時間が経っちゃった大人でも、もしまだ、人間関係の苦痛さに浸かっている場合は、「解る解る!」ってなるだろうし、それを脱していた場合は「高校生ってこんなかもなぁ」って青春の残酷さに苦笑いするだろう……という、そういう類いの映画かもしれない。
「部活必死な童貞」は、もちろん例だから、女の子も含むけど、いわば、「ダサい子たち」で、「ヤリまくりの帰宅部」は、実際“ヤリまくり”かどうかじゃなく、何もかんもダリぃって言って、制服をかっこ良く着崩したり、でかいストラップつけてたりするタイプ。
そういう対比を描いた作品は、映画だけじゃなくて、ドラマとか漫画とかたぶん他にもあるけれど、その描き方が秀逸なんだろう。嫌みもないし、同じ時間軸をそれぞれの視点で、平行して描くので、たぶん観客は、その中の誰かに感情移入するかもしれない。
“ダサい”か、“カッコいいか”に、顔の良し悪しは関係ない。
オタクっぽい、暗い、おとなしいと、笑われてる気がする。あるいは本当に笑われてる。
ーー自分は、どっちの高校生だったかなぁ。
というのが、この映画を見とけ、って言ってくれた子の感想だったのだけど、
たぶん、この感想に、この映画の本質が凝縮されているんじゃないかと思った。
私は部活こそ必死ではなかったけど、間違いなくダサい側の人間だったな。
高校時代は、クラスにとけ込めなかった。
私の通ってた高校は、いわば「ガリ勉高校」だったし、時代も今とはちょっと違うから、映画ほど「帰宅部サイド」、即ち「世渡りうまいタイプ」が目立ってたわけじゃない。
けど、それなりにコンプレックスは持っていた。
私は人一倍思春期が遅かったし、「自分のことばかり話したら嫌われるんじゃないか」と思ってビクビクしていたし、同学年には、彼氏彼女がいる人たちもいたけど、自分はそういうのとは無縁だったし。
彼氏彼女以前に、私の場合は、もっと深刻な対人恐怖症に悩まされていた訳ですけれども。
高校一年生のときのクラスはちょっと派手め、つまり、この映画で言う「帰宅部」な人が多くて、そこでいきなり友達作りにずっこけた。
二年生ではトップクラス入りしたから、そこには勉強をがんばる子が多くてまだ居易かった。友達も出来たのは二年生のとき。ついでに優しい子も多かった。
それなのに、クラスの子たちに心は開けないままで、そんな悩みにどっぷり浸かってるもんだから、成績がた落ちして、三年ではトックラからはじき出されたという痛い思い出。
そして、その頃の不器用さは、大学に入ってからも引きずった。
でも、この頃のことからは、だいぶ痛みを感じなくなってる。
それはありがたいことだし、ようやく大人になって笑い飛ばせるようになったんだなと思うけど、でも、そのことがちょっとだけ寂しいような気もする。
笑い飛ばせない頃だったら、この映画は頭にくるくらい、痛々しく感じたんじゃないかと思う。
けれど、今の私の“仕事”って、こういう映画を見て、あの頃のことを思い出して、「辛かったなぁ」とか、「ヒリヒリするなぁ」と共感して終わるのではなく、こういうことを思い出して、「誰かの役に立てる」段階に来てるんじゃないかな、とも思う。
それは、純粋に、積み重ねてきた歳の数を考えて。
あるいは。
そういう時代の自分を忘れてた人たちが見て、「高校生ぐらいって、こんなつらさがあったよな」って少し引き戻されて、高校生くらいの子たちの立場に立って、シンクロするのに役に立つ作品でもあるのかもしれない。
忘れちゃうから、慣れてくると、いろんなこと。
私はこのとおり記憶鮮明だから、そういう意味では、この映画は必要なかったのかな。「言われなくても、知ってるよー」って。
もちろん、私自身、根本は変わっていない。痛みは感じなくなったのは、「だいぶ」であって、「全く」ではない。人に合わせるのは、今も結構疲れる。 記憶鮮明だなんて言えるのも、大人になりきってないからだろう。
でもその感覚を全部無くしたら、私はこの映画を「ヒリヒリする」と感じる子たちにシンクロすることも出来なくなっちゃうから、いいかな、それは変わらないままで。
それに、こんな感じの自分でも元気に生きていけるのは、いろんな人を受け入れられるようになって、好きだとさえ思えるようになったから。
そして少し納得いかないことにも、理解してみようと思えるようになったからだ。
この映画を少しだけ突き放して観られたこの距離感は、私が望んでいたとおりのものかもしれない。
ハッピーなエンディングがあるわけでも、心が温まるわけでもない映画だけど、 宏樹がちょっと最後で涙ぐんじゃうあたりがね、ホッとしたかな。
「一見すると、世の中にうまく合わせているような人たち」が、本音では違うんだ、っていう、
そんな痛々しい苦しさを描く物語は、決して嫌いじゃない。
人間は、見たままの姿がすべてじゃない。
それを頭に入れておくだけで、この世界がずいぶんと優しいものに思えるような気がしてくる。
* * *
(2017.10.26追記)
『ブクログ』のアカウントを持っていたとき、一番多く「☆」がついた感想文が、なぜかこれでした。
自分で読み返しても、どこがウケたのか、ちょっとよく解らないんですが、折角なので、加筆修正して残しておきます。
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